2017年4月29日 (土)

山吹

五日市は、いま、山吹たちが盛り。気持ちのよい薫風にゆらゆらとゆらぎゆれている。

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『遠き日に夢の続くや濃山吹』(田中矢水「遠嶺」)

英国では、ジャパン・ローズというのだそうだ。

花言葉は、「気品」、「崇高」。谷底に落した金貨が山吹になったという言い伝えや、たくさんの金貨のような黄色い花を積み重ねるように咲かせることから「金運」という、あんまり気品のない花言葉もある。

合掌。

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2017年4月27日 (木)

著莪の花

いつものようにいつものところにシャガの花たちが咲き始めました。

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ぱかあっと口を広げて、あっちのせかいへおいでおいでをしているようなのだ。

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もうすこしまってほしい。

『著莪の花風になるまで咲きつづけ』(松田都青「京鹿子」)

中国では、この花を胡蝶花と呼ぶのだそうだ。

4月27日が誕生花。花言葉は、「反抗」。また、種をつけないで、根茎を地表に這わせ群落を組織することから、「友人が多い」という花言葉にもなる。

突然、手を挙げるようにぱっと地上に現れて、咲いたなと思ったらいなくなる、ちょっと変わった花なのだ。

合掌。



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2017年4月26日 (水)

さよならの力 伊集院静

伊集院静先生の「大人の流儀」シリーズの7巻目は「さよならの力」。

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「・・・別離は哀しい出来事である。さよならと言う言葉さえ耳に残らない。長い間、去って行った人たちが、どこかで独り淋しくうつむいているのではと憂えていた感情が、今は、彼、彼女の笑顔が浮かぶ時さえある。それは彼等が生きていた時間へのいつくしみであり、生き抜くしかないという自分への叱咤かもしれない。さよならに力があるとすれば、誰かへのいつくしみがあるからではないか。今、私はさよならが与えてくれた力を信じている。」

身近な人をなくした人がまわりにはたくさんいることを知った。そんな知人たちが、この本にマーカーを引いて、まるで聖書のように座右の書としている。

一家に一冊ではなくて、ひとりづつの一冊なのだ。

さよならの力だけじゃなくて、ことば力もあるのだ。

「・・・苦しみ、哀しみを体験した人たちの身体の中には、別離した人々が、いつまでも生きていて、その人の生の力になっています。だからこそ懸命に生きなければならないのです。私は、今、"さよならが与えてくれた力"を信じています。」

合掌。

この本の110頁からはじまる「可哀想なことをした・・・・・・」には、定宿で二年周期ごとに部屋を訪れるクモが好きで、なあんと万次郎と名前をつけているのだと書かれている。

なんだかうれしい。

窓の外には、天のクモさまがいらっしゃいました。

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合掌。

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2017年4月24日 (月)

あきる野歌碑めぐり

先日、佳月橋のたもとに、金田一春彦の歌碑が突然現れて、なんだなんだと思っていたのだけど、五日市図書館で「あきる野歌碑めぐり」のパンフレットを発見。

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ということで、さっそく早朝ウォーキングのルートを変化させて「あきる野歌碑速攻ウォーキング」をやってみようということになり、即時了承(なにぶん一人会議なので、結論は素早い)。

正しいウォーカーは、つるまない。単独行が基本。まあだあれも相手にしてくれないからな。ということで、犀の角のように、哀しく歩むのでありました。(ええと、今日の文章は長いのでお暇なときにどうぞ。)

スタートは武蔵五日市駅。

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第一ポイント。五日市中学校の西端に設置されている「五日市憲法草案の碑」まで、1,023歩約8分で到着。歌碑じゃないんだけどね。まああんまり細やかなことは言わない。

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碑文には草案からの条文が書かれています。

五日市憲法草案抜粋

45日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ 他ヨリ妨害ス可ラス 且国法之ヲ保護ス可シ

48凡ソ日本国民ハ日本全国ニ於テ同一ノ法典ヲ準用シ 同一ノ保護ヲ受ク可シ 地方及門閥若クハ一人一族ニ与フルノ特権アルコトナシ

76子弟ノ教育ニ於テ其学科及教授ハ自由ナルモノトス 然レドモ子弟小学ノ教育ハ父兄タル者ノ免ル可ラサル責任トス

77府県令ハ特別国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ 府県ノ自治ハ各地ノ風俗習例ニ因ルモノナルカ故ニ必ラス之ニ干渉妨害ス可ラス 其権域ハ国会ト雖モ之ヲ侵ス可ラサルモノトス

86民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝ノ起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス

194国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラス 又其罪ノ事実ハ陪審官之ヲ定ム可シ

隣に建つ、あきる野市教育委員会の説明の看板には・・・

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あきる野市の文化財 五日市憲法草案の碑
所在地 あきる野市五日市四〇九番地二

五日市憲法草案は、明治一四年に深沢権八を中心とする五日市学芸講談会の有志と、宮城県栗原郡白幡村(現栗原市志波姫)に生まれ、五日市勧能学校の教師としてこの地を訪れていた千葉卓三郎が中心となって起草した私擬憲法草案です。東京経済大学教授であった色川大吉氏らによって、昭和四三年に深沢家の土蔵から発見されました。司法、立法、行政の三権分立が明確に規定され、国民の権利に多くの条文がさかれているなど、自由民権思想に溢れた非常に民主的な内容であり、他の民間草案の中でも屈指のものです。

昭和五四年、この私擬憲法草案を生み出したこれら先人の偉業を顕彰し、後世の人々に広く知ってもらうため、千葉卓三郎の生地宮城県志波姫町(当時)、起草地である五日市町(当時)、墓所の仙台市の三カ所において同時に碑を建設することとなり、この碑は地域の人々の協力のもと、五日市憲法草案顕彰碑建設委員会によって建てられました。

正碑には最もよくその特色を現わす抜粋文六カ条が、副碑背面には学芸講談会の会員三〇名の姓名が刻まれています。

平成一七年一一月一五日設置 あきる野市教育委員会

自然石に刻まれた「建碑の辞」も傍らに建つ。

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カタカナ交じりの文はなかなか興味深い。カタカナハ平安時代ニ漢文ヲ読ムタメニ発明サレタ補助符号。学問ノ場デ使ワレル文字ト認識サレ明治・大正時代にナッテモ維持サレ学問的、公的文章デハ漢字カタカナ交ジリ文章デ書カレテイタ。

昭和に書かれた文章なんだけど、明治・大正期の知識層のもったいぶった権威を踏襲することが格があると思っていたのかな。普通に書いて欲しかった。のだけど。(コノ碑文ヲ観タダケデパスシテシマツタラ勿体ナイ)「時タマタマ」なんて笑っちゃうけんども。

建碑ノ辞

明治維新ノ大改革ハ明治十年ノ西南戦争ヲ転機トシテ国内政治体制ノ近代化ニ向ウ機運ヲ起シ 民間ニモ立憲政体ヲメザス革新的ナ自由民権思想ガ高揚シタ ワガ五日市町ニオイテモ先覚ノ士ガ時運ヲ鋭敏ニトラエテ近村ノ同志ヲ糾合シ 逸早ク新シイ学問思想ヲ学ブタメ五日市学芸懇談会ヲ組織シタ
時タマタマ五日市勧能学校教師トシテ滞在シテイタ宮城県志波姫町ノ出身俊英気鋭ノ千葉卓三郎ヲ迎エ研鑽論議ガ重ネラレタ 卓三郎ハ明治十四年 大日本帝国憲法制定ニ先立ツコト八年 遂ニ学芸懇談会有志ノ力ヲ結集シテ五日市憲法草案ヲ作成シタ ソレハ五篇十一章二百四条カラナル堂々タルモノデアリ立憲君主制ノ体裁ワトツテイルガ別掲ノ例示ノ如ク自由民権思想ノ筋ヲ通シタマコトニ民主的ナモノデアル 現存スル三十余種ノ民間草案中屈指ノモノトイツテモ過言デハナイ 本草案ハソノ後九十年ノ間 学芸懇談会ノ中核ヲナシテイタ深沢家土蔵ニ奥深ク眠ツテイタガ 昭和四十三年八月東京経済大学色川大吉教授ラニヨリ発見サレ 五日市憲法草案ノ名ヲ以テ広ク学会ニ紹介サレ天下ノ識者ノ注目ヲ浴ビルニ至ツタ 茲ニ五日市学芸懇談会ノ同志並ビニ千葉卓三郎ラ明治ノ先覚者ノ功績ヲ永ク顕彰スルタメ 町民各位ノ協力ニヨリ本碑ヲ建立スルモノデアル
 昭和五十四年十一月三日

      五日市憲法草案顕彰碑建設委員会

「・・・5月の憲法記念日をはさみ,今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら,かつて,あきる野市の五日市を訪れた時,郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち,地域の小学校の教員,地主や農民が,寄り合い,討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で,基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務,法の下の平等,更に言論の自由,信教の自由など,204条が書かれており,地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が,日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の,政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ,深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で,市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。・・・」(宮内庁HP「皇后陛下お誕生日に際し(平成25年))

檜原街道に出て、改装されたばかりの上町の延命地蔵堂。

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上宿の地蔵さま

 むかしむかし、五日市の宿は徳川様の天領地で、江川太郎左衛門というお代官様が治めていました。
 五日市の宿は、毎月五と十のつく日の六回の市が開かれていました。近くの村のおひゃくしょうさんたちが作った季節の野菜や麦、豆などと、山方の人たちが作った薪や炭などが並び、それらを売ったり買ったりする人びとで、たいそう賑わいました。
 たくさんの人びとで賑わった「市」も、お酒を飲んでよっぱらってけんかする人、人の物をぬすむ人、お金をだましとられる人が増え、困ったことになりました。
 その上、疫病がはやったため、「市」に行くと病気がうつると、うわさが広がり、いつしか「市」もさびしくなっていきました。
 また、隣村の若いむすめさんがさらわれて、その人さらいが五日市の宿ににげこんだといううわさもあって、お役人がさがしまわったりして大さわぎになりました。
 こんなありさまでは、一番困るのは五日市で商売をする人たちでした。どうしたら元のような賑やかな「市」をとりもどすことができるのかといっしょうけんめいに考えました。
 なかなかよい案がうかばないでいると、お代官様が「市」の見回りに来ました。宿場の困りはてたようすを知ったお代官様は、小能に古くからある玉林寺の和尚様に相談しました。すると和尚様は、「今、宿の人びとや村人たちは、自分のことばかりを考え、思いやる心をなくしています。まずは、自分の心を拝むことです」と、さとされたのです。
 そこで、みんなで上宿にお地蔵様を建てることにしました。上宿の人たちは、お金を出し合い、お地蔵様をありがたくお迎えしました。
 そして、お迎えした二十四日を毎月の縁日としました。特に、八月二十四日の本縁日には、世話人さんの家に集まり、ごちそうをいただいたりしました。子どもたちも地蔵堂で鐘をたたき、地蔵だんごを食べ、お代官様もおまいりにみえたので、お地蔵様もさぞお喜びであったことでしょう。
 するとどうでしょう。さらわれたむすめさんは無事に助かり、悪人もつかまりました。疫病もなくなり悪い出来事もめっきり少なくなりました。市はようやく元の賑わいをとりもどしていきました。上宿の人びとは、たいそう喜びました。
 しかし、宿が毎日賑わい、繁盛してくると、みんなが忙しくなり、縁日もとだえがちになりました。
 そして、いつの間にか、お地蔵様に手を合わせる人の数もへって、お地蔵様のありがたさを忘れていきました。
 とうとう、お地蔵様は、上宿から追い出されるはめになりました。行くところのなくなったお地蔵様は、番場のお地蔵様のところへ行くことになったのです。お地蔵様は、上宿を離れるのがいやだったのでしょうか。荷車にのせられるときに、転げ落ちて、足を痛めてしまいました。
 お地蔵様がいなくなってから、上宿では悪いことが起こりだしました。お堂の近くで酒に酔った若者が、馬の尻毛を抜いたので、馬はあばれて、若者はけとぱ゛されて、おおけがをしました。また、荷車の荷がくずれて、下敷きになった人が死ぬ、ということがおこりました。
 上宿の人びとは、お地蔵様を粗末にしたせいだと話し合いました。そこで、和尚様にたのんで、番場からお帰りいただくことにしました。
 上宿では、大喜びでお堂をたい建て、「延命地蔵尊」としてお迎えしました。縁日も復活し、催し物も増え、前にもましてお地蔵様をお慕いしました。子供たちにとっても、お堂は安心して遊べるところになりました。
 ある日、お地蔵様でかくれんぼして、お地蔵様がおにのやくで、目かくしをしているときでした。目の不自由な女の人が通りかかり、お参りしました。そのとき、お地蔵様が、「目の不自由ではお困りでしょう。私の目をあげましょう」と、声をかけられたのです。すると、不思議なことに、女の人の目が見えるようになったのです。女の人はおどろくやら、うれしいやらで、しばらくぼうぜんとしていましたが、「お地蔵様、お地蔵様、それではお地蔵様の目が見えなくなって不自由でしょう」と言うと、「私のことは心配ありません。私はいろいろな目をもっているのですよ」と、ほほえみながら、やさしく声をかけてくださいました。
 その後、女の人は目も見えるようになり、長生きしました。上宿おまもりくださる延命地蔵尊のおかげで、長生きする人が増えました。
 上宿では、子どもが生まれると、すぐにお参りをするようになり、お嫁に来た人もお参りにきて、縁日にはたいそう賑わうようになりました。

さてさて、このお地蔵様のふしぎなお話は昭和になっても続くのです。大正時代、延命地蔵尊は、今の檜原街道から少し入った玉林寺に向かう坂道の脇にありました。そこには、ほかのお地蔵様が五、六体、ずらっと並んでいたそうです。
 ある時、その道を拡張するひとになり、お地蔵様方は玉林寺に行くことになりました。そのとき、今度は延命地蔵の首がもげてしまいました。やっぱりここを離れるのがいやだったのでしょうか。この延命地蔵尊がいなくなってから、上宿では不幸なことが続くようになりました。
 そこで上宿では、昭和五年に土地を出し合い、お堂を建てて、再びお地蔵様にお帰りいただきました。このことが、再建日記に記録されています。
 上宿の、この慈悲深いお地蔵様は、今でもお堂の中から人びとを、守ってくださってます。

「五日市物語」-ふるさとのあれこれ-五日市物語制作委員会 民謡部会

「枡屋」さんは、「地蔵だんご」をぜひ復活させて、毎月24日の縁日に販売するといい。それも、季節ごとの地蔵だんごがあるといい。地蔵だんごを食べることによって、きっといいことがある。と思う。

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地蔵堂の前の急坂を下ると佳月橋へ。

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橋を渡ったたもとに第二ポイント「金田一春彦歌碑」。駅から2,081歩。

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「いつかいちどは来たいと思う 見ても見あきぬあき川に」(金田一春彦)

小和田を何回か訪ねていた頃の昭和40年(1965)に詠んだ歌。その当時は、五日市町だったのだが、なんで何度も訪れていたのかはパンフレットにも書かれていないの不明。

橋をもどり、川沿いの道を進む。この道筋が昔の「甲州古道」。昔の道筋は、甲州の塩山から裂石で青梅道と分かれ、大菩薩峠を越えて小菅へ。小菅川に沿い小河内の川野から多摩川右岸を進み、鞘口峠を越え檜原・数馬へ。さらに浅間尾根の尾根道沿いに進み時坂を下り檜原・本宿、秋川沿いを下り戸倉の沢戸で秋川を渡り、子生神社下から小中野の川べりを歩き、佳月橋辺りで再び秋川を渡り柏原、小和田、留原、高尾、網代へ続いた。(詳しくは「五日市町の古道と地名」五日市町教育委員会)

黒茶屋周辺には古道の面影がいまも残る。

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第三ポイント「三遊亭歌笑記念碑」。駅から2,919歩。

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黒茶屋の敷地内に建てられている。黒茶屋は、歌笑の生家でもある。

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碑の下部には歌笑の代表作「豚の夫婦」の詩が渥美清の筆により刻まれている。渥美清は歌笑をモデルにした映画「おかしな奴」で歌笑を演じた。

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彼の落語を聴いてみたいという人は、「CD昭和の爆笑王三代目三遊亭歌笑」と「CD爆笑王勢揃い」が五日市図書館に蔵書されている。残念ながら映画「おかしな奴」のDVDはないみたい。

黒茶屋の近くの子生神社。

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全世界の安産祈願の人に代わってお願いをしておきました。

神社のトイレ。なかなかおかしな奴なので、なんだかこのトイレを見ると嬉しくなる。

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沢戸橋を渡り、城山のふもとの昔の戸倉小学校へ。いまは「戸倉しろやまテラス」という滞在型観光施設となっている。校庭の端にあるのが、第四ポイント「中西悟堂歌碑」。駅から3,777歩。

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「青山の幾起伏しのゆるくして 筒鳥きこゆその一つより」(悟堂)

歌集「安達太良」の中の一句で、三頭山に向かう途中で詠んだ一首。

寄り道で、光厳寺の山桜にご挨拶。

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説明看板には英語の表記もされている。「Kougon-ji no Yamazakura」なのだ。

タンポポ。

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なんだかしらないが、ポポンタが好きなのだ。

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檜原街道に出て、十里木へ。人はだあれも通らないのに、愛のベンチが置かれている。

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十里木の駐車場のトイレにあった手桶。なかなか見られない困ったときには、自分でやりなよ。という親切。

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懐かしの十里木ランドは、開園25周年を記念してモアイ像を建ててしまった。

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生真面目そうな顔付き。

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落合橋を渡り進むと臨済宗建長寺派の寺「徳雲院」。

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第五ポイント「三ヶ島葭子歌碑」。駅から7,761歩。

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「筏組む木の音冴えて水ませる あさけのたにに鶯の鳴く」(三ヶ島葭子)

あきる野市デジタルアーカイブ」によると明治41年から6年間、小宮小学校に在職。この時期に、与謝晶子の門下となり「スバル」などに多くの短歌を発表。

小宮時代には
「名も知らぬ小鳥きたりて歌ふとき我もまだ見ぬ人の恋しき」
「薪折るくりやの音を夕ぐれの奥の間に聞く心もとなさ」
「寂しさを歌ふ人なくなりし時ろをまの国は亡びしときく」
「秋雨に濡れつつ君が越えゆきし山に灯一つともる夕ぐれ」

などの歌を残した。

寺の南の川沿いには遊歩道が整備されている。

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水鳥やわらかく遊んでいる。

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山崎酒舗まで戻り、横の細道を進み、長岳橋を渡り瀬音の湯へ。

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瀬音の湯が立つ前は、ここは長岳キャンプ場。小学生や中学生の頃、ここでキャンプをしたものだ。

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瀬音の湯を横切り荷田子へ。

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最終の第六ポイント「水原秋櫻子句碑」。駅から9,635歩。1時間35分。消費カロリー368.6kcal。歩数換算だと7.3kmくらいか

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「屋根に来てかがやく鷽や紙つくり」(秋櫻子)

この句は昭和29年(1954)の早春、疎開先の八王子に暮らしていた際に当地を訪れ、紙漉きを見学していた時に詠んだもの。

この句碑の東側に、もうひとつ句碑があるのですが、字が旨すぎて読めない。誰の句なのだろう。

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この句碑の近くに「みょうごの塚と五輪塔」の説明看板があります。

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この塚と五輪塔が僧侶の墓ということなのだ。

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合掌。

あきる野歌碑めぐり速攻ウォーキングもこれでお仕舞。「荷田子」バス停から武蔵五日市まで280円。瀬音の湯に寄るのもいいけど、最近結構混んでいるからな。

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本日の同行者は、最近お気に入りのモンベルのウォーキングシューズと結ばない靴ひも「キャタピラン」。

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このキャタピランは、紐通しに通すだけ。だまされたと思って使った見たらと友人たちに勧めるのですが、だまされたと思いたくない人が多いのでこまる。モンベルのウォーキングシューズは、グリップ性がよろしいので、この辺のウォーキングやウォーキング大会の多種類の路面には対応力がよろしいのだ。

あきる野市内、五日市には句碑や歌碑や記念碑などがまだまだたくさんあるので、今度は、my歌碑めぐりのコースを作るのだよ。

武蔵五日市駅には、美智子皇后陛下が秋川の清流を詠んだ一首が刻まれた大きな碑があるのに・・・

あきる野市環境経済部観光まちづくり推進課が発行した「あきる野歌碑めぐり」には、掲載されていないのは、なんらかの意図があるのだろうか。パンフレットの「あきる野歌碑めぐりの路」のルート案内にはスタート地点は、武蔵五日市駅とわざわざ書いてあるのに。

美智子皇后陛下の一首は、清流秋川の雰囲気をよく感じられるのに残念。

深沢の穴澤天神社には芭蕉の句碑もある。「山路来て何やら床し菫草」(はせお)

合掌。




























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2017年4月23日 (日)

チューリップ

チューリップももう熟年のときを迎えた。こぼれおちそうな色香。

赤い人(チューリップだけど)も。

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白い人(チューリップだけど)も。

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きいろの人(チューリップなんだけど)も。

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おたがいにしらんかおして風に揺れている。

ひらひらてふてふがすきなのは菜の花。らしい。

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息がつまりそうな、春のお花たち。

合掌。

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