2017年12月17日 (日)

五日市 八王子道(絹の道)

八王子道(絹の道)を歩く。(今日も長いかもしれない・・・)

八王子道の入り口は、今の俗称「富田屋横丁」。左側の建物が、昔「富田屋」という旅館を営んでいたので、富田屋横丁という名前となった。

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昔の「富田屋横丁」(昭和42年12月)」(『五日市の百年 合併40周年記念写真集』)。昔の富田屋旅館と当時の内野屋の間の通り。

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通りを進むと粟島様。

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境内に由緒書きが。

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粟島様由緒

粟島様は和歌山県加太にある淡島神社の祭神をお祭りしている神社です。
淡島神社の祭神は少彦名命大己貴命息長足姫命の三柱で農事を教え裁縫の術を授け諸病を癒し交通安全の守護神としても知られています。
江戸の末特に秋川流域の村々では蚕を養い紬を織ってこの横丁を馬の背に糸や紬をつけ粟島様の下の急坂を抜けて八王子へ向かったのです。
ここに住む人々は諸病を癒す医薬の祖神交通の安全を掌る守護神として淡島神社の功徳を感じ取りここに粟島様をお祭りしたのです。
                      淡島様氏子世話人

本家の和歌山加太の淡島神社は、女性のための神様として昔から信仰されてきた。全国から雛人形が奉納され、三月三日には白木の小舟に乗せた「雛流し」が有名。

神社の裏手から折れ曲がった坂を下る。途中に馬頭観音が二基。

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「あきる野市の石造物」によると、造塔年は、不明。正面に「馬頭観世音」。

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この石造物については「あきる野市の石造物」には、詳細な記載はない。前記の馬頭観音の解説のなかで「・・・このよこにもう一基、自然石の文字塔がある。」と書かれているのみ。

坂を下りきったところに「絹の道」説明看板。

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絹の道 由来記

この坂道は、明治三十三年に秋川橋が架かり、八王子への交通が開かれるまでは、富田屋横丁から八王子への主要な道でした。
生糸・黒八丈・絹紬を馬の背に乗せて、当時賑やかな横丁を抜け粟島神社の下の坂道を下田のたんぼに抜け、現在のあゆみ橋辺の板橋で秋川を渡り小林坂・留原・八王子に向かったのです。
江戸の頃、五日市村近郷の女性は野間稼ぎに繭を養い、糸を取り、黒八丈や絹紬を織って五日市や八王子の市場へ付け出しに年貢の足し合いにしていたと、村方明細帳記録されています。
五日市近郷の人々にとって生活に係わる絹の道の安全は大きな願いでした。(馬頭観音二基)
この度、道路改修が成り、記念として周辺の自治会や下田のたんぼ改良区の方々とここに碑を建立した。
                       平成二十七年
                       仲町自治会

仲町自治会は「馬頭観音二基」と説明しているだから、きちんと自然石の馬頭観音を調べたらよいと思うけど。…馬が哀しい。

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舗装路は右に曲がっていますが、昔の道はたんぼを横切るほぼ直線の道だったのだろう。

ここ下田の傍が小庄。ここに「五日市炭鉱」があったことは、このブログでしたとおり。

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その時の記事。「元の人に伺ったところ、炭鉱の入り口は、新しく家が建てられたあたりにあったらしい。五日市郷土館の2階の展示室には、石炭と掘り出す時に使用したカンテラが展示されています。いざとなったら、ここを掘れば天然のエネルギー源を確保できるのかもしれない。」

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「小庄の炭鉱。戦中戦後掘られていた(昭和18,19頃」(「五日市の百年」より)

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階段が川に続く。ここが昔の板橋がかけられていた付近。対岸に水車小屋がかつて動いていた。水車は、「中村の堰」といわれた水呼び堤防があり、その水力を利用して製材などが行われていたという。

対岸から五日市方面を見るとこんな感じ。

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この中村の渡り岸には、自然石の大きな寒念仏塔が置かれていたが、現在は、新道の小峰峠の登り口の八坂神社、脇の参道入り口に移設されている。

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ふふふふとほほえんでいるようなのだけど、「あきる野市の石造物」によると。

文化11年(1814)の念仏塔で、向こう右面には「文化十一年甲戌季冬吉日」、正面には「寒念佛供養」、向こう左面「多摩郡留原講中」と刻まれているのだという。「あきる野市の石造物」の解説には「中国では始中終を表すのに孟仲季を用いた。「季」は終末を意味する。冬10~12月の末ということで12月をさす。石灰石を用いた寒念仏塔」。」なのだそうだけど、解説の解説の解説が必要なんだけど。

この「あきる野市石造物」は、いい本なんだけど、歩いていて、並んでいる石造物が記載されていなかったり、なんだか、誰向けに書かれた本なのか、良くわからない不思議本。とくに解説は、よく理解できない、なんだか独り言みたいで、まあ、「解説」を深く調べるという課題を与えられているようで、幸せなんだけど、面倒。

ここから小林坂の入り口までを水車に関連させて「車道」と呼んでいた。

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車道から、現在の新道を横切って、昔の「小林坂」へ。道の両側には、民家が立ち並ぶ。

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くねくねと登る急坂を登る。

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登りきると、ふたたび新道。横切って、右手の坂道をさらに登る。(ふうふうと、疲れる)

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昔の七軒町をを過ぎて、養鶏場を過ぎ、芹沢から小峰公園へ。途中の民家では野菜の直売ボックス。

道は、今の小峰公園へ。

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小峰公園西端の「ハイキングコース」が、元の八王子道(絹の道)。

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登り口。

もう、いやになるほどの急坂。途中で、お笑いの玉木。

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急坂がずうっとずうっと続く。おはようのお散歩だっのだけど・・・とほほ。後ろをふりかえると。

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こんな道を馬が登ってきたのだ。馬も大変だけど・・・。五日市郷土館のパンフ「私の五日市物語 石井道郎」によると、五日市へ檜原の人々の炭の運び方の記録によると「男に生まれたら炭を焼け、女に生まれたら馬を曳け」という言葉が紹介されている。

漸く小峰峠。

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さあてと、朝のお散歩なので、八王子は、もうすっかり目指さない。ここから、留原方面に下る。下りもこんな急坂。

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坂の途中のポイントは「イノシシのお食事あと」。

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うふふという看板が小峰公園にはあるんだけど、とても中途半端。イノシシのおしっこのあと、とか、うんこあと、とかアノあと・・・。あとポイントくらいやれよ。都立なんだからなぁ。とイノシシ的にぶひぶひと歩きながらつぶやいていた。

急坂が終わったところに巨大な馬頭観音塔。

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「あきる野市の石造物」によると、文政五年(1822)造立。向こう正面「文政五壬午八月吉日」、正面に「馬頭観音」、向こう左面「隣村講中」。

葉っぱの顔たちが微笑んでいる。

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てなうちに八坂神社近くに。

「庚申塔」(寛政2年(1790))。

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正面「(梵字) 庚申塔」、向こう左面「旹 寛政二戌念佛供養」。

「回国巡礼塔」(文化八年(1811))。

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正面「(梵字) 百番供養」、向こう左面「文化八辛未年留原 二月吉祥月 シノ村権七」。

「回国・巡礼塔」(文化九年(1812))。

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正面「文化九年 百番供養塔 孟夏吉辰 宮野勘右衛門 乙戸彦七 山下忠兵衛 山下源六 松本善兵衛 篠村勘六 中村喜八 木住野平右エ門 木住野惣八 五日市 小山ニ右エ門」。

ところで、「留原」という名前について、五日市郷土館のパンフ「郷土あれこれ第18号 あきる野地名学その21 保坂芳春」で、地名の説明がありました。

それによると「天文20年(1551)広徳寺文書に「戸津原」と出てきます。その後、天正2年(1574)の文書には「留原」になって出てきます。中世は澄む音だったのです。江戸近くになると濁音になってきて、留原(とどはら)となり、現在はトトハラと言ってます。留原はイタドリが生えているところだとか、並木先生が書かれています(注)「五日市の古道と地名」で並木米一書かれていることをさす)が、トドの地名は方々にあります。近くでは柚木にあります。「とどのつまり」のトド、行き止まり、漢字で書けば極限のトドの原だと思います。」

そういうことなのだ。

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合掌。









































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2017年12月15日 (金)

ユージン・スミス写真展

さっきの「夕暮れ」の「ゆ」なので、ユージン・スミスの写真展のオハナシ。もともと、写真がいいねぇと思った高校生の頃、いいなぁとおもったのが「楽園への歩み」。彼の子どもたち、パトリックとホワニータが手をつなぎ木立のあいだを通り抜ける写真。この写真を見てから、なんだか気分が変わったみたいなのだ。

今回の写真展のポスターにも利用されている写真だ。

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恵比寿の東京都写真美術館で、2018年の1月28日まで開催中。

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それから、なんだかワタシのカメラの設定は、モノクロになったりしてる。

ほうらね。朝の寒さにふるえるお花たち。

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はなみず。

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さむいさむい。

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東京都写真美術館くらい、西多摩のほうにあっても撥は当たらない。とおもうけど。

合掌。







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2017年12月13日 (水)

夕暮れ

子どもの頃、「暮らしの手帳」で見ていた藤城清治の影絵のような正しい夕暮れが五日市の西の空を染めつつありました。

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ゆうやけ まど・みちお

ゆうやけ こやけ
あんぱら やいて
おせんべい やいて
ちょうだい

おみやげ みやげ
おかあさんと
おとうさんに
あげるの

(「まど・みちお全詩集」理論社)

合掌。

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2017年12月11日 (月)

五日市 大六天

五日市で大六天といえば、秋川バーベキューランドのやや上流、五日市グランドの中間点辺りで、川が屈折するところ付近を言う。(ええっと、今回も文章が長いので心してどうぞ・・・)

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この大六天の崖の上、留原地区の小林というところに、明治2年まで大六天が祀られていた。(通常の表記は「第六天」が多いが、五日市の場合は「大六天」と書く場合が多いようです。)

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第六天というのは、仏神で南北朝時代から庶民に信奉されていた。江戸時代には、第六天ブームと言われるようなとても人気がある仏神であったらしい。

織田信長は、第六天を厚く信仰。自らを「大六天魔王」と呼んでいたと、名乗っていたのは、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの書簡のなかで紹介されている。秀吉は、神威を恐れ関西の第六天社を悉く廃社にしたのだそうだ。その結果、現在、関西にほとんど第六天が残らず、関東中心に残っているの。

第六天は、仏界の欲天のうち第六天に住む「他化自在天」という仏教の仏さま。人々の喜びを自分の喜びの糧にする仏さまでもある。自分たちが快楽に耽れば耽るほど、この仏さまは喜んでくれると解釈されるようになり、江戸時代に庶民に絶大な人気を誇った。

江戸っ子たちは、お金や恋愛、子授けなど幅広い願いを聞き入れてくれる、ありがたい仏さまとして信仰されてきた。

しかし、明治になると一転。明治政府は、国家神道として神道を国教化。廃仏毀釈、妖しげな仏や邪教排斥を展開。無各社は、集められて正統な神様への合祀運動が吹き荒れる。

人びとの邪心を呷るような第六天信仰は、真っ先に攻撃の対象となった。

今まで信仰を続けてきた人々は、なんとか知恵をしぼって生き残り策を模索。留原の第六天は、近くの稲荷さま、留原の東地区にあった牛頭天王社と合祀し、八坂神社という正統な名前に代えて存続した。

さらに、第六天は、仏界の六番目の仏さまだったものを、神世七代の神々の第六番目の神様「面足命(オモダル)」、「惶根命(アヤカシコネ)」の夫婦神に入れ替えられた。

留原の場合、この合祀は、明治2年という早い時期に行われたのも特徴。慶応4年9月に明治1年になり、それも1月にさかのぼって改元された。慶応4年3月の神祇官達で、すべての仏教的要素を排斥する通達が出されてすぐの対応であった。

こうした地域の素早い対応で、小峰峠入り口の八坂神社のなかで、昔の仏神たちは、静かに生きながらえてきたのだ。

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天保12年(1841)造営の本殿。 176年の風雪に耐えてきた。 Resize20166

八坂神社

鎮座地 東京都西多摩郡五日市町留原芹沢三二0番地
御祭神 須佐之男命 宇賀魂神 面足命 惶根命
由 緒  創立年代不詳 旧幕時代は牛頭天王社で留原村の総鎮守で     天王山地蔵院が別当として奉仕していた。明治二年八月二十日八坂大神、稲荷明神、第六天社と合祀。明治六年村社列格、昭和四年六月神饌幣吊料供進神社に指定される。現本殿再建は天保十二年八月二十二日(1841年)で、昭和二十五年六月五日留原村東一番地より移り現社殿に新築となる。元文五年(1740年)の棟札には当社の本地仏十一面観音の造象由来および、尾張国津島神社祭神須佐之男命、牛頭天王を勧請し、毎年六月十五日祇園会祭礼を修行した旨記されている。
「俗社号 天王さま」

祭礼日 八月末日 日曜日
建物の種類形式
   本殿=一間社流造 総欅彫刻付
   覆屋=神明造 拝殿=入母屋造向拝付 鳥居=木造 神明造 
   狛犬=砂岩 石灯篭=天然石 手水鉢=天然石

「五日市町史」によると、七枚の棟札が現存。もっとも古いものは延宝9年(1681)9月19日と記されていて、「牛頭天王宮成就之所」とある。次に古いものは元文5年(1740)2月27日。「金色山大悲願寺廿四世法印如環敬白」と署名されていて、本地佛十一面観音の造象由来が記されている。

寛政5年(1793)には「泰造立牛頭天王拝殿一宇南北丈二尺東西丈八尺」とある。文化6年(1809)には「泰再造稲荷大明神一宇」。天保12年(1841)8月22日のものは2枚あり「泰再営牛頭天王神殿一宇」とあり、この時に造営したものが、総欅材彫刻付流造の現本殿。

何度も、再建されていることや棟札が残っていることなどから、牛頭天王社の信奉が厚かったことが分かる。

また、「あきる野市の石造物」によると境内の石造物は・・・

「石灯篭」(文政三年(1820))は、正面に「文政三庚辰天」「奉納 惣村中」「六月吉日」。

「手水鉢」(文政三年(1820))は、「文政三年 庚辰六月吉日」「奉納 惣村中」と刻まれている。

牛頭天王社は、現在の光明第六保育園裏の通称どうどう滝の上の崖上の半島状に突き出た場所にあった。

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保育園の場所に、牛頭天王社を奉仕していた地蔵院があった。長く無住の寺であったが、明治43年(1910)に本寺である高尾の大光寺に合寺された。合寺された後も寺の建物は残り、昭和30年代末まで、村(自治会)の倶楽部として活用されていた。

保育園の裏手には墓地が残っている。

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「廻国・巡拝塔」(文化12年(1815))

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向右面に「文化十二年 亥 十一月吉日」、正面に「百番観世(音)」。

「馬頭観音」(明治15年(1882))

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正面に「馬頭観世音」、裏面に「明治十五年十一月建之 願主 宮野政五郎」。

「万霊塔」(不明)

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丸彫地蔵菩薩立像。左手に宝珠、右手に錫杖。

いやはや、なかなか五日市は歩けば歩くほど、興味深いのだ。

■参考

●『「大六天」はなぜ消えたのか-天神となった第六天魔王の遍歴と盛衰と今。謎の神仏の痕跡を追う! 東京 謎の神社探索ガイド 実際に歩ける地図付』(川副秀樹/言視舎)

●『留原のあゆみ』(あきる野市留原自治会)

二つの本とも「あきる野市中央図書館」と「あきる野市五日市図書館」に蔵書があります。

合掌。














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2017年12月10日 (日)

芒時代

秋川の河畔はすすきたちでざわめいている。まるで、おしゃべりなすすきたちの井戸端会議のようだ。

へろへらとそれぞれの顔つきで知らん顔して立っているのだけど。

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ニュースのような風が吹いてくると、調子を合わせたような同じ顔をした、風に整列した軍隊のようなのだ。

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内部からくさる桃 茨木のり子

単調なくらしに耐えること
雨だれのような単調な・・・・・・

恋人どおしのキスを
こころして成熟させること
一生を賭けても食べ飽きない
おいしい南の果実のように

禿鷹の闘争心を見えないものに挑むこと
つねにつねにしりもちをつきながら

ひとびとは
怒りの火薬をしめらせてはならない
まことに自己の名において立つ日のために

ひとびとは盗まなければならない
恒星と恒星の間に光る友情の秘伝を

ひとびとは探索しなければならない
山師のように 執拗に

<埋没されてあるもの>を
ひとりにだけふさわしく用意された
<生の意味>を

それらはたぶん
おそろしいものを含んでいるだろう
酩酊の銃を取るよりはるかに!

耐えきれず人は攫む
贋金をつかむように
むなしく流通するものを攫む

内部からいつもくさってくる桃、平和

日々に失格し
日々に脱落する悪たれによって

世界は
破滅の夢にさらされてやまない。

(「茨木のり子詩集」谷川俊太郎選/岩波文庫 緑195-1)

合掌。





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